部屋のドアを開けた瞬間、湿った静寂が身体にまとわりついた。夜の都会はいつもより冷たく、ネオンの光すらも無機質に感じる。綾乃は溜息をつきながら靴を脱ぎ、リビングのスイッチを入れる。小さなワンルームの空間が、ぼんやりとしたオレンジ色の光に照らされた。 「ただいま…」 誰にともなく呟く。けれど、返事があるわけもない。ただ、水槽の向こう側で、小さな丸い影が揺れた。 ポン。 彼女の視線が水槽に向かうと、アベニーパファーのポンが、小さなヒレをせわしなく動かしながらこちらを見つめていた。まるで、「おかえり」と言っているかのように。 「ポン、今日も元気そうね。」 綾乃は疲れた顔のまま、ゆっくりと笑った。たった1センチほどのその小さな魚は、大きな瞳でじっと彼女を見つめたまま、ふわりと宙に浮くように泳いでいる。その姿はまるで、夜の海に漂う星のようだった。 彼女はバッグをソファに放り投げると、冷凍庫から小さなパックを取り出した。冷凍アカムシ。ポンの大好物だ。 「今日もご飯の時間だよ。」 水で軽く解凍しながら、綾乃はポンを見つめた。小さなフグ。だけど、気性はなかなか荒い。たまに鏡越しに自分の姿を見ては威嚇することもあるし、何より好奇心が強い。水槽の外の世界に興味津々で、綾乃が近づくと、水面にふわりと寄ってくる。 ポンは水の中で、まるで何か言いたげに口をぱくぱくと動かした。 ——ねえ、今日も疲れたの？ そんな風に聞こえた気がして、綾乃はくすっと笑った。たったひとつの水槽。それだけなのに、彼がいるだけで部屋の空気が柔らかくなる。 綾乃はそっとピンセットでアカムシを摘まみ、水槽に落とす。ポンの小さな体が一瞬で動き、ひとつひとつ丁寧にアカムシを吸い込んでいく。目を丸くして、必死に食べる姿が愛おしくて、綾乃の肩の力が少し抜けた。 「ポンはいいなあ、好きなものを好きなだけ食べられて。」 ぼそっと呟くと、ポンは一瞬動きを止めた。そして、まるで「それはどうかな？」とでも言いたげに、くるりと回ってもう一度綾乃を見た。 ——好きなものを食べてるだけじゃ、生きていけないよ。 ふと、そんな声が心の中に響いた気がした。ポンが話すわけがない。でも、確かにそう言われた気がして、綾乃は少しだけ真剣な顔になる。 「…そうだね。」 そう、ポンはただ小さくて可愛いだけじゃない。水槽の中の王様。小さな体に鋭い歯を持ち、縄張りを守るために戦う気性も持っている。小さくても、一生懸命に生きている。 それに比べて、私はどうだろう？ 今日も職場で怒られた。ミスをして、上司の冷たい視線を受けて、それだけで心が折れそうになった。でも、ポンは違う。どんな日でも、堂々と胸を張って（？）生きている。 水槽の中の小さな命が、綾乃にはとても眩しく見えた。 「ポンみたいに生きられたら、少しは強くなれるのかな。」 そう呟いた瞬間、ポンがふいに水面に顔を出し、ちいさく「ぷくっ」と泡を吐いた。まるで「そうだよ」と言っているみたいに。 綾乃は思わず吹き出した。 疲れた夜は、まだ続く。だけど、この小さな魚と一緒なら、少しは明るい明日が待っている気がした。 🐡 部屋の中に、外掛けフィルターの水の音が微かに響く💧 ポンが水槽の中でふわりと宙を舞うように泳ぎながら、大きな瞳で綾乃を見つめている。まるで、何かを問いかけるように。 綾乃はソファにもたれかかりながら、水槽のガラス越しにポンと目を合わせた。 「ねえ、ポン。どうしてそんなに自由そうなの？」 ポンは答えない。ただ、ヒレをひらひらと動かしながら、水面近くを漂っている🌊 綾乃は小さく息を吐くと、そっと目を閉じた。 あの上司の鋭い声が、まだ頭の奥にこびりついている。 「綾瀬さん、これ何回目ですか？同じミスばかりですね。」 「もっと慎重にやってください。あなた、いつも詰めが甘いんですよ。」 冷たい視線。背筋を這うようなプレッシャー。背中にずっしりとのしかかる「できない自分」。 「あーあ……」 天井を見上げる。ぽつんとした電球が、静かに揺れていた。 ——ぷくっ。 ふいに、水槽から小さな泡が弾ける音がした。 綾乃は目を開けた。 ポンが、水面に顔を出しながら、まるで「なに悩んでるの？」と言わんばかりの顔をしていた。 ——悩むくらいなら、ごはん食べたら？🐟 そんな声が、心の中に響いた気がして、綾乃はクスッと笑った。 「ポンはいつも気楽でいいね。」 水槽に指を添えると、ポンがふわりと近づいてくる🐡💕 ちいさなフグ。だけど、存在感は大きい。 （つづく） 文字の制限があるため、続きは私のnoteをご覧ください。気に入っていただけたらハートマークをタップお願いします！