「これが最後かもしれない」 そうつぶやきながら、私はエプロンのひもをきつく結び直した。水玉模様の赤と青が淡い光の中で鮮やかに浮かび上がり、少しでも日常の一部に戻れるような気がして、自然と小さく微笑んだ。鏡の中の自分と目が合う。揺れるパールのピアスが、まるで私の心の動揺を反映しているように小刻みに震えた。いつものように台所に立っているはずの私、しかし、今日の私の内心は、穏やかな日常とは程遠かった。 「エリカ、何かおかしいと思わないか？」 声に反応して振り向くと、彼がいつもの無表情で立っていた。台所の窓から差し込む光が、彼の表情をぼんやりと照らし出している。普段なら安心できるその顔も、今夜ばかりは何か別のものに見えた。 「おかしい？どういう意味？」 平静を装いながら答えるが、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。これが“日常”の一コマであるはずがないのは明らかだ。しかし、彼の言葉の意味を考える暇もなく、静かに包丁を握る手に汗が滲んだ。 「最近、誰かに監視されている気がしてな…」 彼の目が一瞬、私の手元にある包丁に向けられたのを感じる。私の顔に、ふとした緊張が走ったが、すぐに笑みで隠した。「気のせいじゃないの？何かストレスでも溜まっているんじゃない？」 彼は何も言わずに視線をそらし、無言でリビングへと去っていった。その背中を見つめながら、私は深い息を吐き出す。どこかで誰かが、私たちの動向を見ているような、そんな得体の知れない不安が、ついに現実のものになりつつあるのだろうか。私は再び台所に目を戻し、目の前の食材と包丁に意識を集中させた。赤いトマトが、私の内なる恐怖と奇妙に重なって見えた。 数分後、再び彼が戻ってきた。その手には、私が以前捨てたはずのスマホが握られていた。胸の奥がさらに冷たくなり、動揺を隠せないまま彼に問う。「それ、どうしたの？前に壊れたんじゃなかった？」 「そう思っていた。でも、エリカ、これには記録が残っていたんだ」 彼の声が静かに冷えた調子で続く。指が画面をスクロールしている様子が目に入ったが、その内容が何であるか、知ることができなかった。息を潜めて彼の言葉を待った。 「君が隠していた過去の記録だ」 その一言で、私は全てを悟った。彼が知ってしまった、私の隠してきた“非日常”の部分を。いつも日常の平穏を装って生きてきたが、それが崩れ去ろうとしている。 「あなたがそれを見つけたことが、どうしてわかったのかしら」 微笑みを浮かべながら冷静を装う私に、彼はじっと目を凝らして言葉を返す。「エリカ、俺は君の全てを知っていると思っていた。でも…君がこんなことをしているとは思わなかった」 「そんなこと…どうして言うの？」 あくまで知らないふりを続ける私に、彼は更なる追及の手を緩めない。私が仕組んだ小さな嘘が、全てを覆い隠せるとは思っていなかったが、ここまで追い詰められるとは予想外だった。視界の片隅で、エプロンの赤い水玉が異様に鮮やかに見える。 「だから、ずっと君を見張っていたんだよ」 彼の言葉が、まるでナイフのように私の胸に突き刺さる。表情ひとつ変えず、彼の目は私の隠してきたものを全て知っているかのように冷たい光を放っていた。 「そう、あなたは最初から知っていたのね」 冷たい声が自然と口をついて出る。やがて、私の胸の内に抱えていた秘密をすべて解き放つ瞬間が来たと確信する。 「エリカ、お前が今まで何をしていたのか、誰と繋がっていたのか、すべて知っている。お前の手に、その包丁がある理由も」 その言葉に、私はついにすべてを明かす決心をした。ゆっくりと包丁を置き、彼に向かって微笑んだ。「そう…それなら、どうするつもり？」 彼の表情が一瞬硬直し、その瞬間、私の計画が成功したと感じた。