――静けさが、痛いほど肌に触れた。 夏の終わり。湿った風が髪の毛をかすかに揺らす。シルエットだけになった私の横顔は、誰かが輪郭を雑に切り抜いたみたいに、この世界に浮いていた。 真っ白なTシャツの上に、私はまだ何も描けていない。 遠くの空はくすんだ灰色で、雲は張り付いたように動かない。学校の帰り道、川沿いの古びた堤防に立ち止まった私は、ポケットに突っ込んだスマホを手に取る。画面は真っ黒で、何も映っていない。 あの日からずっと、何かが欠けている気がする。 「篠原さん、最近ちょっと変わったよね」 友達の言葉が胸の奥に残っている。小さな棘みたいに。痛みは感じなくても、確かに刺さっている。 ＊ 二週間前。記憶が途切れた日がある。 何をしていたのか、誰といたのか、どうして思い出せないのか。曖昧な靄の向こうに、私は立っている気がする。ただ、そこにいる「私」は、今の私より少しだけ輪郭がはっきりしている。 友達との距離。母の無関心。進路希望の空欄。 全部どうでもいい、と思った時から、私の心は真っ白になった。まるでこのシャツみたいに。 なのに、どうしてこんなにも息苦しいんだろう。 ＊ 「ここ、前にも来たことある？」 川沿いに座り込んでいる男の子が、ふいに声をかけてきた。 知らない顔だ。ぼさぼさの黒髪に、くたびれたジーンズ。素足にサンダルなんて、変なやつ。 私は答えない。 「……覚えてないか。まあ、いいや」 男の子は軽く笑った。気怠げな笑い方だ。けれどその目は、私のシルエットをじっと見つめていた。 「篠原、だよね？」 私は息を飲む。喉の奥がひりついた。 「なんで名前、知ってるの？」 「前に会ったから」 男の子はそう言って、視線を川に落とす。 「前って、いつ……？」 答えは返ってこなかった。ただ水面だけが、夕陽の色を受けて静かに光っている。 遠くで鳥が鳴いた。何の鳥かは知らない。私はそっと息を吐いて、目の前の男の子に背を向けた。 ＊ それから何度も、川沿いへ足が向かった。 誰もいない川辺。風は冷たく、髪の毛を何度も攫っていく。無言のままスマホを見つめるけれど、通知は一つもない。 「誰かに、何かを言いたいんじゃない？」 堤防の向こうから声がして、私は振り向いた。 あの男の子だ。今日もぼさぼさの黒髪。 「……別に」 「嘘」 彼はひとりごとのように言う。 「本当は探してるんだろ。失くしたものを」 失くしたもの？　何のこと？ 胸の奥で何かが軋む。名前のない違和感が、言葉になる前に溶けてしまう。 男の子は私に近づいてきた。そして、私の顔をじっと見つめる。 「君ってさ、誰かに似てる」 「誰か？」 「そう。でも……思い出せない」 私たちはそのまま黙った。夕暮れが近づき、あたりの景色が灰色に溶けていく。 私たちのシルエットだけが、そこに残された。 ＊ 何日目だろう。男の子は言った。 「本当の君は、どこにいるんだろうね」 その言葉が耳から離れなかった。まるで、私自身に問いかけるように。 私は目を閉じる。暗闇が広がる。 思い出せない記憶の向こう側に、もう一人の私がいるのかもしれない。彼女は今より少しだけ笑っていて、少しだけ、ちゃんと「私」だった。 私は彼女を探しているのだろうか。 「私、何か忘れてるの？」 男の子は黙って微笑んだ。答えは、どこにもなかった。 ＊ ある日、男の子はもういなくなっていた。 私は一人、川沿いの堤防に立つ。風が吹き抜ける。髪がさらりと流れ、白いシャツの袖が揺れた。 ――シルエットのままじゃ、終われない。 スマホを手に取り、名前のない誰かに向かってメッセージを打つ。 何を書けばいいのかわからない。だけど、書かなければ、何も始まらない気がした。 画面には私の指先が映る。白いシャツ。少しだけ暗い空。 その向こうにいる私が、じっとこちらを見つめている。 ――いつか思い出せるだろうか。 そう思いながら、私は歩き出す。堤防の向こう、白いシャツの私がまだ知らない、未来へ向かって。