気がつくと、私はその街に立っていた。 どこだろう。白い壁と、尖塔のような建物が青空に向かって伸びている。建物の壁には無数の丸い窓があって、光を映し込んでいるのに、中はまるで別の世界のように暗い。 風が吹いた。私の髪をふわりと揺らし、どこかから花の香りが混じる。温かいような、少し肌寒いような、そんな風だ。 Tシャツの胸元に描かれたモザイク模様が陽光を受けて、金と青に光る。それをぼんやり見つめながら、私は「ここに来た理由」を思い出そうとした。でも、どうしても思い出せない。 なんで私はここにいるんだろう。 ――名前は、菜々（なな）。年齢は……忘れたくなるくらい微妙なところだ。 ポケットに手を突っ込んだまま、立ち止まる。建物のアーチの下から影が伸び、私の足元に重なった。その影だけが妙に鮮明で、まるで私の形をした誰かが、地面に染みついているみたいだ。 「……ここって、本当にどこ？」 誰に聞いたわけでもないのに、言葉が空へと消えていく。 それを聞いていたのか、建物の壁に開いた丸い窓が、じっとこちらを見つめ返している気がした。 --- 歩き出すと、靴音がカツン、カツンと響いた。街には人影がなかった。それなのに、誰かがすぐ後ろを歩いているような、そんな気配がする。 右手に見える柱は、肌色のような柔らかい色をしていて、よく見ると細かいひび割れがある。どこかで見たような色だ――そうだ、パン屋に並んでいた焼きたてのクロワッサン。 「ああ、お腹空いたかも」 私はぽつりと呟く。 ふと立ち止まると、目の前に古びた時計台が現れた。ひとつだけ、尖塔の上に大きな時計がかかっていて、秒針が止まっている。 「……時計が、動いてない」 時間が止まっている――それは当たり前のようで、非現実的なことだ。胸の中で何かがざわめいた。 この場所では、時間が流れていないのかもしれない。 私はゆっくりと時計を見上げたまま、目を細める。光がまぶしくて、視界の端に何かが揺らめいた。 いや、揺らめいているんじゃない。そこに「人影」が立っている。 --- 彼女――いや、あれは「私」だった。 時計台の影に、私そっくりの少女が立っている。服も髪も、全部一緒。違うのは、私のように驚いていないことだ。その子は、ただ静かにこちらを見つめている。 「ねえ、あなた……私？」 声をかけても、その子は何も答えない。ただ、ゆっくりと口を開いた。 「菜々。帰るの？」 帰る？ 私はここに来る前、どこにいたんだろう。 時計台がかすかに音を立てる。針が止まったまま、静かに何かを告げている。あの音が、私をどこかに引き戻そうとしている気がした。 「ねえ、ここはどこ？ なんで私はここにいるの？」 私が問いかけると、もう一人の「私」は小さく首を傾げた。 「わからない。でも、あなたが選んだんじゃない？」 彼女の声は遠く、風に流されていく。 --- どれくらい歩いたかわからない。気づけば、青い空に浮かぶ尖塔が少し遠くなっていた。 街は静かだ。誰もいないのに、誰かの笑い声が聞こえるような気がする。アーチをくぐるたびに、違う時代に迷い込んだような、そんな気がした。 その時、不意にポケットの中で何かが触れた。取り出してみると、それは小さな青いガラスの欠片だった。 「これ、私の……？」 指先に光るガラス片は、あの胸元の模様に似ている。青と金がきらめいて、どこか温かい。 ――ひょっとして、このガラス片が私をここに呼んだの？ 頭の中に、そう問いかける声が響く。でも答えはわからない。わかるはずもない。 --- 再び時計台の下に戻った時、私を待っていたのはもう一人の「私」だった。 「ガラスを返して」 彼女は静かに言った。 「それがあれば、時間は動き出すから」 私はガラス片を握りしめたまま、彼女を見つめた。返すべきなのか。それとも、このままここに残るのか。 時計台の針が、カチリと音を立てた。 その瞬間、頭の中に光が弾けるような感覚が走った。目を閉じた私は、ふわりと体が浮いたような気がして―― --- 目を開けると、そこはいつもの街だった。 行き交う人々の声、排気ガスの匂い、どこまでも続く灰色の建物。私の手には、何も残っていない。 「……夢？」 それとも、あの場所が現実だったのか。 胸元のモザイク模様を見つめながら、私は立ち尽くす。 それでも、耳の奥に残る音――時計台の針が動いた、あの「カチリ」という音だけが、今も鮮明に響いていた。 --- 遠くの空を見上げると、あの白い尖塔が、ほんの少しだけ見えた気がした。