ーーそれは奇妙な夜だった。 私はその夜、美術館の修復室で一人、静まり返った館内の空気を吸い込みながら、最後の作業を終えようとしていた。 目の前には18世紀のオランダ絵画。薄明かりの下で、剥がれかけた絵具と長い年月を経たキャンバスの織り目が浮かび上がる。その表情を読み解くのが、私の仕事だ。 突然、外の廊下から足音が聞こえた。 それは明らかに警備員のものではない。テンポが不規則で、どこか急ぎすぎている。 「こんな時間に誰が……？」 胸がざわめく。時計を確認すると、深夜2時を過ぎていた。美術館が閉館してから、もう数時間が経っている。 修復室の扉をそっと開けて廊下を覗き込む。 しかし、誰もいなかった。ただ、無機質な白い廊下が、やけに冷たく感じられる❄️ ふと、遠くから微かな声が聞こえた気がした。それは風の音にも似て、私を呼ぶように響いた。気のせいかもしれない。でも、その瞬間、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。 次の瞬間、警報音が館内に響き渡った。 鋭い音が鼓膜を叩く。何かが起きたことは明白だった。 私は急いで修復室を出て、警報の発生源と思われる展示室に向かった。スニーカーが石畳を踏む音が、自分の呼吸よりも大きく響いている気がする。 展示室に入ると、そこには信じがたい光景が広がっていた。 中心に置かれていた、目玉展示の絵画が消えている。展示台に残されているのは、ガラスケースとキャンバスを支えるはずの空っぽの枠だけだった。 「ありえない……」 私は立ち尽くした。 この美術館のセキュリティは最新鋭だ。夜間はすべての出入口が厳重にロックされ、監視カメラが隅々まで作動している。館内の温度や湿度の変化まで感知できるセンサーが、どんな異変も記録する仕組みだ。 それにもかかわらず、絵画が消えている。まるで、絵そのものが溶けて消えたように。 足音が近づいてきた。振り返ると、警備員の一人が駆け寄ってくる。彼の顔は蒼白だった。 「佐々木さん、大変です！防犯カメラの記録が……何も映っていません！」 何も映っていない？ 頭の中で何かが崩れる音がした。 この事件には何かがおかしい。 絵画が消えた理由も、防犯カメラの異常も、そして…… 先ほど聞こえた、あの足音。 私の視線は、無意識に空になった展示台に戻る。 その時、私は気づいた。 展示台の下に、微かな絵具のかけらが落ちているのを。 その色は、オリジナルの絵画には使われていないはずの、鮮やかな青だった。 私は膝をつき、その鮮やかな青に触れた。 指先に粉状の絵具が少しつく。触った瞬間、その質感から新品のピグメントであることがわかった。 「……この青、見たことがある。」 美術修復士として、膨大な絵具の種類を扱ってきた経験がある。この青は普通のものではない。極めて純度の高いウルトラマリンブルー。その色合いは、確かに最近復刻された高価な特注品に違いない。 私は急いでその粉末を白いハンカチに包み、証拠として持ち帰ることを決めた。 すると、再び廊下から足音が聞こえた。 今度はしっかりとしたリズムの、複数人のものだ。 「佐々木さん！」 駆け込んできたのは、美術館の館長・高階と、警察の捜査員たちだった。 高階館長は50代半ばの男性で、短髪をきっちり整えた容姿からして、几帳面な性格が伺える。彼は普段、無表情を貫くタイプだが、今は明らかに動揺している様子だった。 「いったいどういうことなんだ！密室状態の展示室から絵画が消えるなんて……」 「私にもまだ分かりません。ただ……これを見てください。」 私は展示台の下に落ちていた青い絵具のかけらを指さした。 警察の一人が屈み込み、それを慎重に採取する。 「これは……この絵画に使われている色じゃないな。佐々木さん、あなたの見解を聞かせてくれますか？」 私は深く息を吸い込み、頭の中で情報を整理した。 「この絵具は、高級な現代のものです。18世紀の絵画には存在し得ない色です。つまり、この粉がここに落ちていること自体がおかしい。」 警察官たちの間にざわめきが広がる。 「もしや……贋作とすり替えられた？」 一人の若い捜査員が、恐る恐る言った。 その言葉に高階館長は眉をひそめた。 「そんなことが可能なのか？この美術館のセキュリティを突破して、しかも密室状態で……？」 私は無言のまま展示台に目を向けた。 （つづく） 全部を載せたいのですが制限があるため、もし続きが気になる方は私のnoteをご覧ください。気に入っていただけたらハートマークをタップお願いします！