あの日の午後のことを、私はきっと忘れられないでしょう。 窓際のベンチに座り、私は制服の襟を軽く引っ張りました。じっとしているだけでじんわり汗ばむ梅雨明けの教室は、どこか息苦しい空気に包まれていました。 視線を落とした膝の上には、薄く擦り切れたノート。左手はその角を何度もいじり、右手は膝の上でぎゅっと握りしめたまま動きません。視界の端に広がる制服のスカートのしわが、不自然に目につきました。 頭の中には、ぐるぐると同じ問いが渦巻いていました。 どうして、あのときあんなことを言ってしまったんだろう。 私の心がその問いに絡みつくたび、息が苦しくなります。木製の背もたれは冷たく硬く、頼りなく背中を押しているだけでした。窓の外からは、誰かが運ぶサッカーボールの音が響きます。それがやけに耳障りに感じて、私は思わず肩をすくめました。 そのとき、教室の隅で何かがかすかにきしむ音がしました。視線を上げると、少し離れた場所にクラスメイトの恵子がいました。恵子は私と同じ窓際のベンチに腰を下ろし、私の様子をじっと見つめています。彼女は、いつも明るい笑顔と軽やかな態度でみんなを引っ張るタイプで、私とは正反対の存在でした。 「葵、大丈夫？」 恵子の声が柔らかく届きます。それは教室のざわめきの中でもはっきりとした輪郭を持っていました。私は一瞬、彼女の顔を見つめましたが、すぐに視線をそらしました。何も言えず、ただ頭を軽く横に振るだけ。 「また一人で悩んでるでしょ。」 恵子の言葉は予想以上に鋭くて、私は一瞬だけ息を飲みました。けれど、それ以上何かを言う勇気は持てませんでした。いつものように「なんでもないよ」と返せばよかったのに、その言葉すら出てこない自分に腹が立ちます。 　 窓辺のカーテンが揺れるたび、日差しが私たちの足元を照らしては消えていきます。自然光が、薄紫色のカーテン越しに淡く溶け込んで、どこか夢のような雰囲気を漂わせていました。その光景は穏やかであるはずなのに、私の胸の中はざわざわとして落ち着きません。 「言いたくないなら無理に言わなくていいけど、私はいつでも聞くよ。」 恵子の言葉が、静かに私の心に触れました。それは、思いがけない温かさでした。私は少し唇を噛んでから、「ありがとう」とだけつぶやきました。小さな声でしたが、それを聞き取った恵子は、優しく笑っていました。 　 放課後の帰り道、私はひとりで歩きました。紫色の夕焼けが空に広がり、通学路には長い影ができています。アスファルトの上に自分の姿が揺れるのをぼんやりと眺めながら歩いていると、急に背後から声がしました。 「葵！」 振り返ると、そこには恵子が立っていました。手には、私が置き忘れたノートが握られています。「忘れてたよ」と彼女が笑いながらそれを差し出すと、私は思わず「あっ」と小さく声を上げました。 「なんか、いつも抱え込むよね。」 そう言いながら、恵子は真っ直ぐな目で私を見つめます。その目が、私の奥深くを覗いているようで、私はたじろぎました。でも、次の瞬間、彼女の笑顔に救われた気がしました。 「たまには頼ってもいいんだよ。」 私は彼女の言葉に頷くことしかできませんでした。でも、心のどこかでその言葉が何かを溶かしていく感覚がありました。 　 その日家に帰ると、私は机に向かい、置き忘れたノートを開きました。ページには、ぎこちない文字で書かれたメモがいくつも並んでいました。それは、誰かに伝えたい気持ちや、胸の中にある想いを書き留めたものでした。けれど、それらのどれもが未完成で、どこか中途半端なものでした。 恵子の言葉を思い出しながら、私はそっとペンを取ります。そして、久しぶりに手が動きました。書きながら気づきました。何かを伝えるのは、いつだって難しいものだ。でも、だからこそ、伝えようとすることには意味があるのだと。 　 それ以来、私は少しずつ変わり始めました。まだ全てを言葉にできるわけではないけれど、恵子がいると不思議と安心できるようになりました。そして、あの午後の木漏れ日の光景だけは、今でも心に刻まれています。それは私にとって、孤独の中で見つけた小さな希望のようなものです。 忘れられない木漏れ日の午後――そのぬくもりは、これからも私を支え続けるでしょう。