窓を開けると、湿った風が髪をそっと揺らした。 雨上がりの匂いがふわりと漂い、記憶の奥底を刺激するようだった。 遠くの山並みは青く霞み、雲間から射す光が地面に模様を描いている。 「空は今日も広いなぁ。」 そう思いながら、私は手を窓枠にかけた。木製の古びた窓枠は少し冷たく、手にしっとりと馴染む。 久しぶりに帰ってきたこの家は、驚くほど何も変わっていなかった。 棚の上には、私が小学生の時に作った手のひらサイズの粘土細工がまだ並んでいる。 右手を少し欠いた人形がこちらを見ているようで、なんだか居心地が悪い。 けれど、この部屋の空気だけは妙に優しく、心の奥に染み込むようだった。 「瑠奈（るな）、お昼どうする？」 階下から母の声がした。 懐かしい響きに胸が少し締め付けられる。 声の調子に少しの気遣いが混じっていることに気づき、返事をしないまま窓辺に寄りかかった。 外を見下ろすと、庭の真ん中に立つ古い桜の木が目に入る。 幹に刻まれた小さな傷跡が、まるで私たち姉妹の思い出を語っているようだった。 妹の七海（ななみ）と遊んだ記憶が蘇る。 木の下で拾った鳥の羽を宝物のように大事にして、二人でこっそり「秘密の羽根箱」を作った。 それから何年も経った今、その箱がどこにあるのかさえわからないけれど、あの時の感触だけは手のひらに残っている気がする。 「七海、元気かな……。」 ふと呟いた自分の声が、部屋の中に寂しげに響いた。 遠くの空を見つめながら、私は七海がこの家を出て行った日のことを思い出していた。 「私も、そろそろ自分の空を探しに行かなきゃ。」 そう言い残して、彼女は都会へと旅立っていったのだ。 窓の外では、雨の残り滴が陽射しを浴びてきらめいている。 地面には小さな水たまりが点在し、その一つ一つに空の欠片が映り込んでいる。 私は白いワンピースの裾を手で整えながら、裸足のまま庭へ降りた。 濡れた土の感触が足裏にじんわりと伝わる。 桜の木の下に立つと、ひときわ大きな風が吹いてきた。 髪がふわりと舞い上がり、頬に当たる微かな湿り気が心地よい。 その瞬間、頭の中に鮮明なイメージが浮かんだ。 それは幼い頃、七海と一緒に見たあの青い空だ。 雲の道がどこまでも続いていて、二人で手を繋いで駆けていく夢。 何もかもが無限で、自由で、時間すら存在しない場所。 「瑠奈、どこまで行けると思う？」 七海が笑顔で問いかけてきたのを覚えている。 私はその言葉の意味を今になって考えている。 私は足元を見下ろし、小さな水たまりに映る自分の姿を見た。 風に揺れる髪と、どこか迷子のような表情をした自分。 「私は今、何を探しているんだろう。」 そう心の中で問いかける。 その時、不意に背中に温かさを感じた。 振り返ると、母が私の肩にそっと手を置いていた。 「七海のこと、気にしてるの？」 優しい声が耳に届き、私は曖昧に首を振った。 「大丈夫よ、瑠奈。七海はきっと、いつか帰ってくる。」 母の言葉は力強く、けれどどこか切なさを孕んでいた。 私は何も答えず、もう一度空を見上げた。 山並みの上で、雲がゆっくりと形を変えていく。 その様子を見ていると、時間が静かに巻き戻されていくような気がした。 今ここにあるのは、過去でも未来でもない、この瞬間だけ。 「ただいま。」 小さな声でそう呟いた。 それは誰に向けた言葉かわからない。 けれど、口にしてみると胸の中に少し光が差し込んだ気がした。 空はますます青く、雲はどこまでも広がっていく。 私はゆっくりと目を閉じ、微かに微笑んだ。 また新しい風が吹き始め、私の髪をそっと撫でていく。 今、この瞬間だけが確かなもの。 そして、この窓辺で揺れる時間こそが、私にとっての答えだったのだ。