春の朝、オフィスの窓際には柔らかな光が差し込み、木製のデスクに影を落としている。微かにインクの匂いが漂う老舗文具メーカー『鳩印文具』のオフィスには、レトロな雰囲気が残っている。 さくらは、自分のデスクの前で固まっていた。パソコンの画面には、宛名だけ打ち込まれたままのお礼メール。キーを打つ手が、まるで鉛のように重たい。 ——失礼のないように。でも、よそよそしくなりすぎず……。 考えすぎて、もう三十分以上が経過していた。周りを見渡すと、先輩たちは次々と仕事を片付けている。マグカップを片手に軽口を叩く人もいれば、電話越しに滑らかな敬語を操る人もいる。 「……はあ。」 ため息が漏れた。 入社してまだ三ヶ月目。業務には少しずつ慣れてきたものの、文章を書くのはどうしても苦手だった。何を書けばいいか分からず、考えれば考えるほど筆が止まる。社会人なら誰でもできるはずのことが、自分にはうまくできない。 ——私って、やっぱりダメなのかな。 小さく肩を落としたそのとき、ふとデスクの片隅に目をやる。そこには、数日前に試しに開いたままのブラウザタブがあった。 「……ChatGPT？」 最近、社内でも話題になっているAIアシスタント。仕事の効率化に便利だと聞いていたが、実際に使ったことはほとんどなかった。 「試しに……聞いてみようかな。」 半信半疑で、ゆっくりと指を動かす。 「得意先へのお礼メール、丁寧だけど親しみやすい文章で。」 送信ボタンを押すと、数秒後、画面に文字が浮かび上がる。 「○○株式会社 △△様 いつもお世話になっております。鳩印文具の○○です。 先日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございました。お話しさせていただいた内容、大変勉強になりました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」 「……え、早っ。」 一瞬、息をのむ。考え込んでいた文章が、たった数秒で形になった。しかも、驚くほど自然な言い回し。 思わず画面を見つめたまま固まってしまった。 「……これ、すごい。」 目の前の文字を何度もなぞる。丁寧すぎず、かといって失礼でもない。柔らかく、それでいて礼儀正しい。これなら、自分にも送れそうな気がする。 ——このまま使ってもいいのかな？いや、ちょっとだけ自分らしさを足してみよう。 さくらは、提案された文章を少し書き換えた。自分の言葉をほんの少しだけ加えて、送りたい気持ちに寄り添うように。 送信ボタンを押すと、胸の奥に小さな達成感が広がった。 ——できた。 画面を見つめながら、ふと感じる。 ChatGPTって、ただ便利なだけじゃない。 私が一歩踏み出すのを、そっと後押ししてくれるんだ。 送信ボタンを押した瞬間、心の中に小さな達成感がじんわりと広がった。 たった一通のメール。それでも、今まで何十分も悩んでいたことを考えれば、大きな一歩だった。 「……私、できたんだ。」 パソコンの画面を見つめながら、小さく呟く。 そのとき—— 「さくらちゃん、ちょっといい？」 背後から、先輩の坂井さんの声がした。慌てて振り向くと、坂井さんはにこやかにマグカップを手にしていた。 「はい！」 「さっき送ったメール、もう届いてたよ。すごく感じがよかったって、先方から連絡あったよ。」 「えっ、本当ですか⁉」 信じられない。あんなに悩んでいたのに、こんなにあっさりと「良い」と言われるなんて。 「うん、文章が自然で温かみがあったって。すごいじゃん。」 「ありがとうございます……！」 ほっと胸をなで下ろした。 「さくらちゃん、前に『文章が苦手』って言ってたけど、全然そんなことないじゃん。」 「えっ……？」 思わず顔を上げる。 「さっきのメール、すごく読みやすかったし、丁寧で、それでいて親しみやすさもあったよ。ちゃんと伝えたい気持ちが乗ってた。」 そんなふうに言われたのは、初めてだった。 文章を書くのが苦手だと、ずっと思っていた。大学のレポートも、エントリーシートも、何を書くか分からなくて苦しんだ。社会人になってからは、尚更だった。 でも—— 「……もしかして、私、書けるのかな。」 小さな疑問が、心の奥で芽生えた。 （つづく） 全部を載せたいのですが文字の制限があるため、もし続きが気になる方は私のnoteをご覧ください。気に入っていただけたらハートマークをタップお願いします！