私はここに立っている。なぜここにいるのかは、私にもよくわからない。ただ、水面が優しく私の足を冷やし、風が柔らかく髪を撫でていくその感覚に、奇妙な心地よさを感じている。名前は、藍（あい）。青い空と水に囲まれた場所にいると、心の底から穏やかになれるような気がするから、不思議。 水色の薄いガウンをまとい、肩の上に軽くかけた布が風に揺れている。ガウンの下に着ているのは、まるで夜空に小さな星が散らばっているかのようなレースのワンピース。風が吹くたびに、軽やかに揺れる。青い花飾りがついた髪に触れると、少し冷たさが指先に伝わり、それもまた心地よい。太陽の光が優しく、暖かく私を包み込みながらも、まるで儚い存在のように私を透き通らせる。 周りには一面に咲く野花。赤や黄色、白い花が美しく咲き乱れ、遠くの風景には農村の小さな家々がぽつりぽつりと見える。空は、まるで印象派の絵画のように多彩な色で埋め尽くされている。薄いオレンジやピンク、青、紫が重なり合い、光と影が混ざり合って、心が溶けてしまいそうなほど幻想的な光景だ。この風景に包まれると、自分がどこにいて、どこから来たのかさえどうでもよくなる。 けれど、私の中にある一つの影、それだけは消えない。幼い頃、私には夢があった。それは、自分の作った物語でたくさんの人を幸せにすること。しかし、私が思い描いていたように物事は進まなかった。現実はいつも冷たく、苦しく、私の心に傷を刻んでいった。過去の思い出は、まるで重く湿った石のように心に積もり、どんなに綺麗な風景を見ても、それだけで癒されることはない。 「藍さん、どうしてそんな悲しそうな顔をしているんですか？」誰もいないはずの場所で、ふいに誰かの声が聞こえた気がして、振り返る。けれど、そこには誰もいない。水の中に立つ自分の姿が、ただぼんやりと揺れているだけだ。その顔をじっと見つめると、まるで別人のような気がしてくる。長い間、自分自身から目を背けていたのだろうか。私の顔には、かすかな笑みの代わりに、どこか遠くを見つめる無表情が浮かんでいる。 私は、風に揺れるガウンの端をそっと掴み、自分自身に問いかける。「私は、どうしてこんなに心が重いのだろう？」この美しい風景に包まれても、私はまだどこかに重りを抱えたままだ。それは、過去のトラウマが私の心に深く根を下ろしているからなのだろう。無理に忘れようとすればするほど、その根はさらに深く私の心に絡みつき、私を締め付ける。 ふと、遠くで一羽の鳥が翼を広げて飛び立つのが見えた。羽ばたきの度に、空気が震え、命の輝きを感じさせる。私も、あの鳥のように自由になれる日が来るのだろうか。傷ついた過去から解放され、心が軽くなる日が来るのだろうか。そんなことを思いながら、私は手に触れる冷たい水の感触を確かめる。 空がだんだんと夕暮れに染まり、空気が冷たくなると、私は少しだけ勇気を出して、自分の内なる影と向き合う決意を固める。今まで逃げ続けてきた過去の傷と、今、目をそらさずに向き合うことで、何かが変わるかもしれない。もしかしたら、少しずつでも、この美しい景色の中で私も心の中に光を取り戻せるのかもしれない。 そんな淡い希望を抱きながら、私は一歩踏み出そうとした瞬間、突然、足元の水が揺らぎ、私の姿が一瞬だけ消えてしまった。まるで、私が存在しないかのように水面が静かに戻る。まさか、これは夢だったのかもしれない。いや、もしかしたら現実のようで現実ではない場所に迷い込んでいたのかもしれない。過去の影も、今いる場所も、全てが薄れゆく幻のように感じられる。 私は立ち尽くし、ゆっくりと空を見上げる。何かが消えていく、その刹那の感覚を味わいながら、心に残るのはただ、優しい風の音と水の冷たさだけ。そして、次の瞬間には、私の姿もまたこの風景と共に、儚く消えていく。