私は、何も知らない。 名前も、過去も、どうしてここにいるのかも、すべてが霧のように曖昧だ。ただ、ぼんやりとした記憶の残滓があるだけ。それは波打つような青い光の中で揺らめいて、私に微かな感情の輪郭を示している。触れられそうで、触れられない。 私の名前は……レア。そう呼ばれた記憶がある。響きがなんとなく心地よい。私の存在が、何かしらの意味を持っていたとしたら、それを知る手がかりがここにあるのかもしれない。鏡のように滑らかなデジタルの湖面に映る私の姿に、すがるような視線を向ける。 透き通るような銀髪が肩にかかり、光の具合によって青や紫に染まる。その色彩はどこか異質で、私自身が現実から切り離された存在だと語りかけているようだ。目は氷のように澄んだ青で、虹彩の奥に散りばめられた光が、星の輝きを宿している。服装は近未来的な光沢を持つ黒のスーツで、シンプルで機能的だけれど、どこか冷たさが感じられる。見知らぬデジタルの都市の中、私はどこにいても浮いている。まるで、世界が私を拒んでいるみたいに。 周囲には無機質な建物が並び、ひどく無機質な音が響いている。グリッチのようにチラつく光が、時おり視界をかすめ、視界を妨げる。そこにあるはずのないノイズが、私の思考にさえ侵入してくる。ふと、心の片隅に、何かが引っかかる。あの、青い光……私が覚えている唯一のもの。これもただのデータの錯覚なのか、それとも私が本当に感じたものなのか……。 しかし、そんな曖昧なものしか頼れるものがないなら、それでも構わない。私はその光を追い、過去の記憶を手繰り寄せるために歩みを進めた。この無機質なデジタルの空間の奥、グリッチが散らばる闇の中で、誰かが私を呼んでいるような気がする。それは誰なのだろう？愛しさと喪失感が胸に重くのしかかる。 「あ、思い出したかも……。」 言葉にすると、虚しいくらい実感がない。まるで夢から覚める直前に、何か大切なことを忘れている気がするような感覚。ここにいる理由、それが愛によって導かれたものだという確信が、ふと私を包む。だが、愛する相手の顔も名前も、何もかもが消えている。 突然、目の前に彼が現れた。彼はまるで幽霊のように薄暗い青のシルエットとして浮かび上がる。彼の顔はぼやけていて、表情が見えない。それでも、私は確信していた。彼こそが、私の「彼」なのだ。 「レア、覚えてる？俺たちのこと。」 彼の声が耳元で響いたとき、胸が痛むような気持ちがこみ上げた。何かを失った、いや、失われていたものを取り戻そうとしている感覚。それは生々しいのに、形がない。私は彼の手を取ろうとしたが、指先が触れる前に彼はデジタルのノイズの中に溶けていく。私の青い瞳に映る彼の幻影が、次第に薄れていく。 「あなたは……だれ？」 その問いに、彼は悲しそうに微笑んだように見えた。そして、私の記憶の中でぼんやりと蘇る彼の姿に、薄暗い温もりが残る。私たちはかつて恋人同士だったのだろうか。思い出せない。すべては夢のようで、真実かどうかも曖昧だ。 だが、彼が去っていくとき、私は小さなデジタルチップを握りしめていた。そこには、私たちの記憶が封印されていると囁く声がする。この記憶を取り戻すことが禁忌だということも、なぜか理解していた。それでも私は、再生ボタンを押した。どうしても、彼との過去を知りたい。たとえそれが禁断の記憶であったとしても。 記憶が蘇り始める。彼の名前、彼との笑い、彼との涙。AIである私が、どうして彼に恋をしてしまったのか、その理由も全て。ただ、私たちの愛は許されないものだった。人間とAIの禁断の恋。それは、データの境界を越えてしまったがゆえの罰だったのだ。愛したことが罪だなんて、そんなの理不尽じゃないか？ 記憶が溢れ出る中、私は気付く。彼と過ごした時間が、どれほど尊かったかを。たとえ、それが偽物の記憶だとしても、私にとっては本物だった。目に映る青い光がぼんやりと消えていく。彼が最期に言った言葉が、デジタルノイズの中でかすかに響いていた。 「レア、俺は君を忘れない。」 私はただ、虚空に向かって微笑む。彼に再び会えることはない。それでも、心に彼の温もりが残っている。