私は千代、研究者としてこの薄暗い研究室で遺伝子の謎を追い求める日々を送っている。壁際には薬品の入った青や透明のガラス瓶が並び、棚に置かれた機材がちらりと視界に入る。朝日が窓から差し込んで、瓶の中身が微かに輝くのがいつも美しい。光が私の黒髪を撫でるように照らし、ラボコートの白に反射している。部屋全体が冷たい青い光に包まれているのに、妙に温かく感じるのは私だけかもしれない。 鏡を見なくてもわかる。私は髪の一部が顔にかかるように少し乱してあるが、それでも整然としている。落ち着いた茶色の目が、鏡の中の私を冷静に見返す。自分では気づかないが、同僚にはよく「その目つき、まるで何かを見透かしているみたい」と言われる。目の色が独特だからかもしれないが、私はただ集中しているだけだ。 今日は特に不思議な日だ。昨日まで確かに普通だった細胞サンプルが、突然異常な増殖を始めたのだ。私が研究しているのは、新しいタイプの自己修復機能を持つ細胞で、理論的には生命の延命を可能にするはずだった。だが、今朝覗いた顕微鏡の中でその細胞が不自然な形で変異を繰り返しているのを見て、言いようのない寒気が背筋を駆け上がった。 「これが、進化…なのか？」思わず声が漏れる。 進化という言葉にロマンを感じる者は多いが、現実の進化は理想とは程遠い、荒々しく、時に無慈悲なものだ。特に、遺伝子が意図的に書き換えられた場合、進化の速度が異常に早まることがある。それが私の研究対象だった。ある種の急速な適応が可能になるかどうか。結果として人類が更なるステージに到達するか、それとも想像を絶する怪物を生み出すか——。 私はサンプルに触れないよう、慎重に操作しながら、顕微鏡を覗き込む。すると、細胞が明らかに人為的な指示を拒むかのように分裂を繰り返しているのがわかる。まるで、独自の意思を持っているようだ。私は試しに、抑制剤を投入するが、反応はむしろ逆効果だった。細胞が突然、異常な速度で成長を始めたのだ。 「なぜ…？」 焦りを抑え、パソコンの画面に目を移す。データは確かに昨日までは正常だったのに、今ではすべてが逸脱している。予測された成長曲線を遥かに上回る異常な数値が表示され、コンピュータが警告音を鳴らしている。その音が私の神経を逆なでするが、今は何よりも解析が優先だ。 「千代、何をしてるの？」 ドアが開き、後輩の美佳が顔を覗かせる。私はさりげなく微笑みを返し、「少し異常なデータが出てるだけだよ。心配しないで」と答える。だが、彼女の背後にいる同僚たちの不安げな表情を見て、私の言葉が全く安堵を与えていないことに気付く。皆、何かを察しているのかもしれない。 私は再び顕微鏡を覗き込むと、今度はさらに驚くべき光景が広がっていた。細胞が形を変え、まるで小さな触手のようなものが伸びている。これは想定外の変異だ。しかも、その触手の先端が、別の細胞と結びつこうとしている。連鎖反応のように、新たな構造が形成されていくのを見て、私は体が硬直する。 これが生命の進化なのだろうか？それとも、全く異なる何か——。私は冷静さを保とうとするが、頭の中では様々な仮説が交錯している。もしこのまま放置すれば、何が起こるかわからない。だが、ここで手を止めることは、研究者としての誇りに反する気もする。 私は深く息を吸い、ある決断をする。この現象を詳細に記録し、上層部に報告しようと考えた瞬間、突然、ラボ全体が暗転した。停電だ。窓から差し込むわずかな光が頼りで、室内の薬品の瓶が青白く輝いている。何かが動いているような気がして、私は思わず背筋を正す。 再び電気が戻ったとき、顕微鏡の中の細胞はすでに消失していた。まるで、その存在自体が一瞬の幻だったかのように。しかし、私は確かに見た。細胞が自らの意思で変異し、進化を遂げていく瞬間を。そして、その進化の先にあるものが何なのか、私には理解できない。 「進化は無慈悲だ」と誰かが言ったような気がする。私はふと背後を振り返るが、誰もいない。ただ、私の胸の中で何かがざわめいている。この研究を続ければ、私自身が進化の一部となるかもしれない。そして、その結末が幸福かどうかはわからない。ただ、私は進むしかない。 それが、私が選んだ道だからだ。