夕陽が空を燃やすように照らし、橙と紫が入り混じる光が山々を柔らかく包んでいた。私はその光の中、澄んだ空気を吸い込み、少しだけ震える心を静めようとしていた。名前はリセラ。薄茶の髪は首元で軽くまとめ、風に揺れるドレスの裾を手で抑えながら、私は深い谷を見つめていた。どこか古風なこの装いは、祖母から受け継いだ大切な服。生成り色のブラウスには繊細なレースがあしらわれ、長いスカートは優しい青で、裾には金糸で小さな葉の模様が刺繍されている。薄暗くなる空の下では、その装いも私の心の中のように、ぼんやりと光を帯びているように見えた。 ここは私が初めて訪れる場所。目の前に広がる山並みは、まるで長い年月を経て人の手に触れることなく存在してきたかのような静けさを漂わせている。そんな中、私はまるでこの場所に導かれるように、長い道のりを歩いてきた。理由は…きっと、自分でもわかっているのだと思う。過去から逃げるため、そして新しい自分を見つけるために。けれども、その目的に対して答えを見つけられない自分が、今ここに立っている。 山風が私の頬を撫でると、どこからともなく懐かしい声が聞こえたような気がした。振り返ると誰もいない。けれど、その瞬間、不思議と心が温かくなるのを感じた。「リセラ、君はどこへ行くんだい？」そう問いかける声が、遠い昔の記憶をくすぐる。子供の頃、私はよくこの問いに対して大きな夢を語ったものだ。でも今の私は、その問いにどう答えればいいのか分からないままだった。 私の立っている場所からは、渓谷の向こうに広がる広大な森が見渡せる。森はまるで生き物のように色彩を変え、夕陽の光を受けて深緑と金色が溶け合う不思議な輝きを放っていた。この光景を見ていると、自分が世界の小さな一部でしかないことが、痛いほどに感じられる。そしてその小さな一部である私にも、何か意味があるのだろうかと考えてしまう。 私の指先は、祖母のドレスの裾の金糸をつまんでいた。祖母は言っていた。「リセラ、過去は足枷にもなるし、翼にもなる。それをどう使うかは自分次第だよ」と。過去を翼にするためには、きっと何かを乗り越えなければならない。それが何なのか、まだ私は見つけられていない。だからこそ、こうして山々を目の前に、過去の記憶と向き合おうとしているのかもしれない。 日が沈むにつれ、冷たい風が谷底から吹き上がってきた。光の加減が変わり、空が徐々に深い群青色に染まっていくと同時に、周囲の影が濃くなり、私の影も長く伸びていった。影を見つめると、それがまるで私の過去の重さを象徴しているかのように思えた。私は、祖母が残したこの服を纏っていることで、過去と共に生きる覚悟ができていると思っていた。けれども、実際にはその覚悟がどれほどのものなのか、私はまだ自分に自信がなかった。 一歩、また一歩、山の縁まで足を進めた。視線の先に広がる深い谷は、暗闇に包まれ始めている。その暗闇の中には何があるのだろう？過去の自分が置いてきたもの、失ったもの、そして探しているものが眠っている気がした。恐怖もあったけれど、それ以上に、私の中で何かが沸き立つ感覚もあった。 「私は、この先へ進むべきなのだろうか？」と自問する。答えがすぐに出るわけではない。でも、まるで山が優しく背中を押してくれているような気がした。私の心の奥底で、微かな声が「進んでみなさい」と囁いている。その声に従うなら、私はこれまで抱え続けた過去と決別できるのかもしれない。そして、新しい自分を見つけることができるのかもしれない。 もう一度空を見上げると、最後の一筋の夕陽が私を照らしていた。まるで、山が見守ってくれているかのように。その光が私の胸に染み込み、暖かさを感じた。私はゆっくりと息を吸い込み、覚悟を決めた。過去の私をここに残し、今の私として一歩を踏み出すことを。 そして、私は振り返らずに歩き出した。