空気が湿り気を帯びた風に揺れる葉の音が、耳に心地よく響きます。私は木製の橋の欄干に背を預けながら、湖の向こうに沈む金色の太陽をぼんやりと眺めていました。風にくすぐられる髪をそっと指で抑え、涼しげな空気を胸いっぱいに吸い込む。 Tシャツの袖を少し引っ張りながら腕を伸ばしてみると、陽の光がまるで肌に優しく触れているような感覚がしました。この場所が好きだった理由を思い出す。静かで、穏やかで、それなのに心の奥がざわめくような不思議な場所。 「彩葉（いろは）、そんなとこで何してるの？」 振り返ると、いつものように無造作にシャツの袖をまくった悠斗が、手をポケットに突っ込みながらこちらに歩いてきます。 「何してると思う？」 わざと少し意地悪そうに笑ってみせると、彼は小さく肩をすくめて笑いました。 「考え事してる顔じゃないな。ま、彩葉らしいけど。」 「どういう意味？」 聞き返しながらも、彼の言葉に少し救われた気がしました。自分らしい、という言葉は不思議と安心感を与えてくれるものです。 彼が私の隣に腰を下ろすと、橋の板が少しきしむ音がしました。二人で並んで湖を見下ろすと、水面には木々の影が揺れていて、時折吹く風がその輪郭を曖昧にします。 「もうすぐ夏が終わるね。」 ぽつりと呟くと、悠斗は短く「そうだな」とだけ返しました。その言葉には、少しだけ寂しさがにじんでいるように感じました。 少し沈黙が続いたあと、私は思い切って口を開きました。 「ねえ、悠斗。もし私たち、いつかここに戻ってこれなくなったらどうする？」 彼は驚いた顔をするでもなく、ただ湖をじっと見つめたまま答えます。 「そんなの考える必要ないだろ。ここに戻ってこれるかどうかなんてさ。今、この景色を見て、こうしていられる。それだけで十分だろ？」 その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられました。いつもどこか飄々としていて、本音を隠しているように見える悠斗が、こんなに率直なことを言うのは珍しいからです。 ふと彼の顔を横目で見ると、どこか遠くを見つめる茶色がかった瞳が陽の光を反射して輝いていました。その横顔は、見慣れているはずなのに、少しだけ大人びて見えました。 「覚えてる？」 唐突に悠斗が言いました。 「覚えてるって、何を？」 「最初にここに来たときのことさ。お前が橋から落ちそうになって俺が必死で支えたやつ。」 「ああ、そんなこともあったっけ。」 笑いながら答えたけれど、実はその時のことをはっきりと覚えていました。初めて悠斗と二人でこの湖を訪れたあの日。まだ中学生だった私たちは、お互いにどこかぎこちなく、それでいて無邪気でした。 「お前、本当に怖がってたくせに。」 「うるさい。あの時は子どもだったの！」 「今だって大して変わらないだろ。」 彼がからかうように笑うので、私は肩を軽く小突きました。その瞬間、二人ともつられるように声をあげて笑いました。 その笑い声が湖に響く中、私はふと思いました。 こんな時間が、ずっと続けばいいのに、と。 でも、それは叶わない願いだということも、わかっていました。 日が少しずつ傾いていき、湖の表面がオレンジ色に染まりました。その美しさに見惚れながら、私は胸の中でそっと誓いました。 この夏、この場所、この時間を、ずっと忘れないでいようと。 悠斗がポケットから何かを取り出しました。それは、少し色褪せたカメラでした。 「お前、写真撮るの好きだっただろ。」 「うん。でも最近撮ってないな。」 彼はカメラを私に手渡し、湖を指さしました。 「今の景色、撮っとけよ。いつかここに戻れなくなったときに見返せるようにさ。」 その言葉に胸が熱くなり、私はカメラを構えました。シャッターを切る音が静かな湖畔に響きます。その瞬間、悠斗が言いました。 「撮りたいものが景色だけじゃないなら、俺も撮っとけよ。今ならサービスでいい顔してやるから。」 「サービスって何それ。」 私は笑いながらカメラを彼に向けました。彼はいつも通りの笑顔を浮かべていますが、その奥にどこか寂しさが潜んでいるように見えました。 カメラ越しに見つめながら、私はまた胸の中で誓いました。 「いつか戻れなくても、この瞬間は永遠に。」 風が吹き、髪がさらりと揺れる。いつものように悠斗が小さな冗談を飛ばして、二人で笑う。 そうやって、夏は終わっていきます。 でも、私はきっと、この夏を忘れない。 それだけは、確かです。