湯気がたちのぼる茶碗の向こう側に、私はぼんやりとした現実を眺めていた。 肌を撫でる温泉街の湿った空気は、遠い記憶の中の雨の日と似ている。けれど、そこにはもう戻れない。駅から続く石畳の坂を歩いてきた足は、じんわりとした疲れを抱えながら、今この食堂の木製の椅子に落ち着いている。 「いらっしゃい」 年季の入った暖簾をくぐった瞬間に聞こえた声は、湯に溶ける湯葉のように柔らかかった。小さな食堂。カウンターの向こうでは、白い割烹着の女将が手際よく鍋をかき混ぜている。煮干しの出汁がふわりと鼻をくすぐり、胃がきゅうと鳴いた。 「定食でいいかい？」 「はい、お願いします」 余計なやり取りはいらなかった。この町に来てから、私はできるだけ言葉を少なくしようと思っていた。言葉が多いと、記憶の扉が開いてしまいそうだったから。 しばらくして、盆の上に置かれた湯気立つ味噌汁を見て、思わず息をのんだ。透き通る琥珀色の汁の中で、きのこがしなやかに身をよじらせている。味噌の香りがふんわりと広がる。口に含むと、ふわっとした甘みと、ほんのりした酸味が舌に広がった。深い森の奥に迷い込んだような味がする。どこか懐かしく、どこか寂しい。 「このみそ汁、すごく美味しいですね」 ぽつりと呟くと、女将は手を止め、ふふっと笑った。 「うちのみそ汁はね、この土地の味噌と、山で採れたきのこで作るのよ」 「山できのこを？」 「そう、山のものはね、年ごとに違う顔をするの。去年と同じ味にはならない。けれど、その変わりゆく味を楽しむのが、この町の人たちの流儀さ」 変わりゆく味──それは私がずっと拒んでいたものだった。変わることは、失うことと同じだと思っていたから。けれど、目の前の味噌汁は、変わることが美しくもあるのだと教えてくれるようだった。 ＊ 「今年のきのこは、なかなか良い出来でね🍄」 女将はそう言いながら、小鍋を火にかけた。中で味噌汁がくつくつと踊る。私は、手元の茶碗を見つめながら、ふと、昔のことを思い出していた。 幼い頃、祖母がよく作ってくれた味噌汁がある。祖母の手はいつも味噌の香りがして、私はそれが好きだった。だけど、あの味はもう二度と口にすることはできない。祖母が亡くなったあの日から、私は味噌汁を避けるようになっていた。 それなのに、今、目の前のこの味噌汁は、私の心を揺さぶってくる。まるで、もう一度、あの日に戻れるかもしれないと囁いてくるように。 「お嬢さん、どこから来たの？」 女将が湯気越しに微笑む。 「東京からです🏙️」 「ほぉ、それはまた遠くから。何か理由があって旅を？」 理由──。 私は箸を握る手を少し強くした。 「……ちょっと、疲れてしまって😔」 そう答えるのが精一杯だった。 女将は「ふふん」と含み笑いをすると、お椀に味噌汁を注ぎながら言った。 「旅先で飲む味噌汁は、少しばかり心に沁みるもんさね🥄」 私は静かに頷く。そして、また一口、味噌汁を飲んだ。 すると、不思議なことが起こった。 口の中で広がる風味が、私の中の時間を巻き戻す🌀 祖母がいた家の縁側、風に揺れる暖簾、土間に転がるじゃがいも、夕暮れに染まる台所。 「……あれ？」 味噌汁の湯気が揺れる。今、私はどこにいるのだろう？ この食堂の中？ それとも、あの懐かしい時間の中？ 「ほら、おかわりをどうぞ☕」 気づけば、女将が新しい味噌汁をよそってくれていた。 私はそっと、お椀を受け取った。その瞬間、もう一度、この町の空気が、私の中に染み込んでくる気がした。 [ (2) につづく ]