私は夏海（なつみ） この夜、誰もいないはずの自分の部屋で、それを見た。 木目調のドアは、明るい間接照明に照らされ、いつもと変わらない落ち着いた空間を作っているはずだった。 けれども、微かに汗ばんだ白いTシャツの感触や、髪の毛先が頬に触れる感覚が、妙にリアルに感じられる。 胸の奥に広がる不安の正体が何なのかは分からなかったけれど、その違和感は次第に輪郭を持ち始めた。 何気なく振り返った視線の先で、ドアのノブがゆっくりと回るのを見たからだ。 「誰…？」 小さく声に出した途端、全身が凍りついた。 ノブが一瞬止まったかと思うと、ドアが音もなく少しだけ開いた。 私は息を飲んだ。 隙間から見えるのは、暗闇と冷たい空気の気配。 さっきまで穏やかだったはずの部屋の空気が、まるで真冬の湖のように冷たくなったように感じた。 それは、ゆっくりと、私の部屋に忍び寄ってきた。 - 私は立ち尽くしていた。 何もできず、ただ目の前の出来事を受け入れるしかなかった。 けれど、その「何か」が姿を現す前に、突然すべての動きが止まった。 まるで時が凍りついたかのように、静寂だけが支配する。 その瞬間、私はハッとした。 「逃げなきゃ」と思ったけれど、体は硬直していて、まるで動かなかった。 そのときだった。 背後の鏡台に映る自分の姿が、ほんの一瞬だけ笑ったのを見たのだ。 - 私は思い切ってドアを閉めた。 強く、音を立てるようにバタンと閉じると、何事もなかったかのように部屋の静けさが戻った。 「…気のせい？」 胸の鼓動が少しずつ落ち着いていくのを感じながら、私は深呼吸した。 でも、何かがおかしい。 部屋全体を見回すと、鏡台の上に置いていたはずのイヤリングがなくなっていることに気づいた。 - 次の日、学校に行くと友達の紗季（さき）が声をかけてきた。 「夏海、顔色悪いけど大丈夫？」 私は曖昧に笑いながら答えた。 「昨日ちょっと寝不足でね…」 それ以上は話したくなかった。 誰にも信じてもらえそうになかったし、正直、自分でも何が本当なのか分からなくなっていたから。 でも、紗季が次に言った一言で、私はまた心臓が凍りついた。 「そういえばさ、夏海の家って、昔事故があったって聞いたけど、本当？」 - その夜、私はまたあのドアの前に立っていた。 昼間の紗季の言葉が頭から離れない。 事故って何のこと？ どうして私の家にそんな話があるの？ 怖いけれど、このままじゃ眠れそうにない。 私は意を決してドアノブに手をかけた。 ノブは冷たく、ゆっくりと開けるたびにギシギシと音を立てる。 けれど、ドアの向こうには誰もいなかった。 いや、誰もいないどころか、そこは部屋ではなかった。 - ドアの向こうは闇だった。 深い深い闇の中に、点在する光が見える。 それらの光が星のように煌めいていることに気づくと、私は思わず足を踏み出した。 足元の感触はなく、ただ宙に浮いているような不思議な感覚があった。 そして光の一つに触れると、そこには私の記憶が映し出されていた。 幼い頃、祖母の家で遊んだ夏の日。 友達と大笑いした放課後。 あのときの告白の瞬間…。 でも、そこに一つだけ知らない記憶があった。 - それは事故の日だった。 記憶の中で、私は泣いていた。 目の前には誰かが倒れていて、私はその人の名前を叫んでいる。 けれど、音が消されていて、何も聞こえない。 「これは…何…？」 その瞬間、背後から誰かの手が私の肩に触れた。 振り返ろうとしたけれど、全身が固まって動けない。 耳元で囁く声だけが聞こえた。 「真実を知る準備はできた？」 - 次に気づいたとき、私は元の部屋に戻っていた。 ドアは閉じられている。 私は震える手でドアノブに触れたが、開けることはしなかった。 あの闇の中に見た記憶のことを思い出そうとしても、なぜか霧がかかったようにはっきりしない。 ただ一つ確かなのは、私はこれまで知らなかった「自分の一部」を垣間見たということ。 その夜、私はイヤリングを手に取りながら、深く息を吐いた。 あの声の主が誰だったのか、私はまだ知らない。 でも、いつか真実を知る勇気を持たなければならないと分かっている。 そして私は今日も、あのドアの前で立ち止まっている。 開けるべきか、開けざるべきか。 その答えを探し続ける夜が、これからも続くのかもしれない。