光の加減で、絵画の表面に浮かぶ細かいひび割れが見えた。私は思わず身を乗り出す。まるで蜘蛛の巣のような、不自然なクラックの模様。普通の来館者には気付けないだろうが、美術修復士の私には一目瞭然だった。 「この作品、最近修復されたんですか？」私は横にいた学芸員の井上さんに尋ねた。彼女は首を傾げる。 「いいえ、ここ10年は手付かずよ。どうかしたの、佐々木さん？」 私は眉をひそめた。ならば、このクラックはいったい？修復痕でないとすれば...。 ここ、青山美術館は、私が美術修復士として7年間勤めている場所だ。クラシカルな外観に最新のセキュリティを備えた、由緒ある私立美術館。 私、佐々木蘭は32歳。絵画修復の道を選んだのは、祖父の影響が大きい。祖父は日本画の修復師として名を馳せた人物だった。幼い頃から、祖父の仕事場で絵具の香りと戯れて育った私には、この道しかないと思えた。 「井上さん、この作品の状態をもう少し詳しく調べさせてもらえますか？」 井上文子。40代後半の気さくな学芸員だ。10年以上このキュレーターとして働いており、西洋絵画に関する造詣が深い。私の直属の上司でもある。 「もちろんよ。でも展示時間中だから、明日の朝一番でどう？」 その夜、私は眠れなかった。あの不自然なクラックが気になって仕方がない。修復痕でないなら、何か別の理由があるはずだ。でも、それが何なのか——。 翌朝。早めに出勤した私を待っていたのは、警備員の焦った声だった。 「佐々木さん！大変です！」 展示室に駆け込んだ私の目に飛び込んできたのは、空っぽの額縁。昨日まであったはずの絵画が、跡形もなく消え失せていた。 「でも、セキュリティシステムは正常です。夜間の侵入者も記録されていません」警備主任の山田さんが困惑した様子で報告する。 その時、昨日見たクラックの意味が、私の中でピースのように繋がった。これは単なる盗難事件ではない。もっと巧妙な、誰かの周到な計画の一部。 私は額縁に近づき、慎重に観察を始めた。美術品の修復技術を知る者だからこそ、気付ける何かがあるはずだ。絵画は私に何を語りかけようとしているのか——。 私には分かっていた。この事件の背後には、芸術への歪んだ愛情が潜んでいること。そして、その真相に至る鍵は、昨日見たあの不自然なクラックの中に隠されているということを。 失踪したのは、19世紀フランスの風景画家ジャン＝バティスト・コローの「夕暮れの森」。美術館の目玉コレクションの一つだ。控えめな色使いの中に、繊細な光の表現が特徴的な作品。 警察が到着するまでの間、私は昨日撮影した絵画の写真をスマートフォンで確認していた。やはり、あのクラックには違和感がある。まるで...意図的に作られたかのような規則性を感じる。 「佐々木さんですね。美術品犯罪課の村上です」 颯爽と現れた刑事は、40代前半といったところか。鋭い眼差しの中に、どこか芸術を愛する者特有の優しさが垣間見える。 「絵画の状態について、詳しく教えていただけますか」 私は昨日気付いたクラックのことを説明した。すると村上刑事の表情が変わる。 「実は、最近似たような手口の事件が他の美術館でも...」 村上刑事が取り出した資料には、ここ半年の間に起きた美術品盗難事件の記録が並んでいた。どれも完璧な密室。そして共通しているのは、盗難の前日に不自然なクラックが報告されているという点。 「佐々木さん、この捜査に協力してもらえないでしょうか」 その時、私の携帯が鳴った。見知らぬ番号からのメッセージ。開いてみると、そこには暗号めいた文字列が。 『芸術に価値などない。あるのは真実だけだ』 私は息を呑む。犯人からのメッセージ...？でも、なぜ私に？ 「村上さん、美術修復の専門家を紹介していただけますか？セカンドオピニオンが必要です」 私の頭の中で、ある仮説が形作られ始めていた。 その時、展示室の入り口に見覚えのある姿が現れた。 「これは大変なことになりましたね」 白髪まじりの温厚な表情。かつて祖父と親交のあった修復師、藤原俊介だ。祖父の死後も、折に触れて私に助言をくれる心強い存在。だが、今日の藤原さんの表情には、どこか影があるように見えた。 「蘭さん、この件について、話があるんです」 藤原さんと美術館の裏手にある喫茶店に移動した。ここは職員がよく使う隠れ家的な場所で、静かに話ができる。 「実は、これと似たような盗難事件を私は以前も見たことがあるんです」 （つづく） 全部を載せたいのですが制限があるため、もし続きが気になる方は私のnoteをご覧ください。気に入っていただけたらハートマークをタップお願いします！