綾は、息を詰めるようにして本棚の間を歩いていた。背の高い棚が迷路のように並ぶこの書店は、彼女にとって神聖な場所だった。静寂の中に紙の擦れる音、微かに混ざるコーヒーの香り。まるで心の奥にある秘密の扉をそっと開けるような、そんな空間だった。 彼女の指先が目当ての本を探す。ボーイズラブ──彼女にとって、それは単なる娯楽ではない。胸の奥に灯る、熱を帯びた衝動。それは初めて小説のページをめくったあの日から変わらなかった。男と男の間に生まれる感情の機微、触れ合う視線、静かに育つ愛。現実では語られない物語が、紙の上で繊細に息づいている。彼女はそれを慈しむように、夢中で追いかけてきた。 気づけば、何冊もの本を抱えていた。表紙を撫でるたび、登場人物の心情が手のひらに宿るような錯覚を覚える。彼女はそっと笑う。現実の恋愛には疎いくせに、彼らの恋には誰よりも敏感だった。 ふと、視線の先に一冊の本が目に入った。深い青のカバーに、シンプルなタイトル。──『海の向こうの君へ』。指が無意識にその背表紙をなぞる。著者の名前を見て、彼女の心臓が跳ねた。結城海斗。彼の作品にどれだけ心を揺さぶられただろう。 綾は無意識に本を抱え直し、書店の奥へと足を進める。いつも座る窓際の席でじっくり読むつもりだった。だが、次の瞬間、不意に誰かの肩とぶつかり、彼女は思わず声を上げた。 「あっ、ごめんなさい！」 落とした本を拾おうと屈むと、同じタイミングで相手の手が触れた。指先がかすかに触れ、綾は息を呑む。視線を上げると、そこに立っていたのは── 「……結城、海斗？」 彼の顔を見た瞬間、綾の世界が一瞬、静止した。 結城海斗。 その名前が彼女の脳内で反響する。 まさか、こんな形で出会うなんて──。 「えっと……あの、すみません！」 慌てて本を拾い上げる綾の指先は、微かに震えていた。目の前の男性は、静かな眼差しで彼女を見つめている。黒髪は無造作に整えられ、少し眠たげな目元が印象的だ。長い指が彼の本を拾い上げ、淡々とした動作で表紙の埃を払う。 「……読んだことある？」 低く落ち着いた声。まるでページの隙間から漏れ出る活字のように、柔らかくも芯がある。 綾は、無意識に喉を鳴らした。 「も、もちろんです！ 私、大ファンで……」 言った瞬間、恥ずかしさが全身を駆け巡る。熱が顔に上り、慌てて視線を泳がせる。 すると、海斗は目を細めた。まるで、綾の熱量を計るように。 「ファン、ね」 くすっと微かに笑った彼の唇に、綾は胸を撃ち抜かれたような気分になった。 ──いや、違う違う、私はBLが好きなのであって、決して彼個人にときめいたわけでは！ 「結城先生の作品、全部読んでます！ 特に『海の向こうの君へ』は……その、すごく心を揺さぶられました！」 「……そう」 短い返答。でも、その声音の奥には、ほんの僅かに柔らかい色が混じっていた。 「どのあたりが？」 「えっ？」 思いがけない問いに、綾はパチパチと瞬きをする。 「どの部分が、君の心を揺さぶったの？」 真正面から向けられる鋭い視線に、綾は本能的に背筋を正した。 ──試されている。 ただのファンか、それとも作品の本質を見抜く読者か。 綾の脳内は高速回転する。彼の作品を思い返し、言葉を選ぶ。 「……あの、主人公の海斗さん──じゃなくて、えっと、作中の海斗さんが、自分の気持ちを認めるまでの過程が、とてもリアルで……。感情が、ゆっくりと形を持つ感じが、すごく……」 「……」 「本当の恋愛って、最初から綺麗に形になってるものじゃなくて、もっと曖昧で、苦しくて、でもだからこそ、美しいものなんだなって……思いました」 一気に言葉を並べ、綾ははっと息を飲んだ。 しまった、熱く語りすぎたかも…… しかし、海斗の目が静かに綾を捉えていた。 「……君、面白いね」 「え？」 「いや、何でもない」 くすっと笑い、彼はコートのポケットに手を突っ込む。そして、不意に店内を見渡しながら呟いた。 「……ここ、落ち着くね」 「えっと……この書店、よく来られるんですか？」 「初めて。でも、雰囲気がいい」 そう言いながら、彼の指先が無造作に棚の本をなぞる。その仕草ひとつひとつが、彼の作品の登場人物のようで、綾は思わず息を飲んだ。 「結城先生って……どんな時に、執筆されるんですか？」 「ああ……」 彼は一瞬、遠くを見るような目をした。そして、ぽつりと零す。 「恋愛って、形にするのが難しい。でも、それでも書くんだ」 「……」 （つづく） 全部を載せたいのですが文字の制限があるため、もし続きは私のnoteをご覧ください。気に入っていただけたらハートマークをタップお願いします！