寒さが骨までしみるような冬の夜だった。 千夏はマフラーをぎゅっと首に巻き、吐く息の白さを見つめながら足早に歩いていた。外は冷たく、手袋をしていても指先がかじかむ。けれど、この寒さも嫌いじゃない。なぜなら、この季節こそ銭湯の湯が最高に沁みるからだ。 「今日もいい湯に浸かるぞ……」 自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。 千夏は大学三年生。子どもの頃から銭湯が好きだったが、特に大学に入ってからは、親友の麻里と一緒に通うのが習慣になっていた。都会の喧騒に疲れた体を、広い湯船に沈める瞬間。天井にこもる湯気をぼんやりと眺めながら、ただ湯に身を預ける時間。それは、千夏にとってのささやかな癒しであり、心を解放できる場所だった。 「千夏！」 向こうから麻里が手を振って駆け寄ってくる。ダッフルコートの襟を立てて、頬を真っ赤に染めているのが寒さを物語っていた。 「遅いよ、もう湯冷めしそう」 「いや、まだ入ってもいないから！」 二人で笑い合いながら、暖簾をくぐった。 ふわりと漂う檜の香りと、湯気に包まれる感覚。千夏は一歩足を踏み入れるたび、肩の力が抜けていくのを感じた。 「相変わらず、いい匂い……」 「でしょ？ こういうのがさ、家のお風呂とは違うんだよね」 麻里がカウンターで入浴料を払いながら、嬉しそうに言う。千夏も頷いた。そう、銭湯にはただの「お風呂」ではない何かがある。それを言葉にするのは難しいけれど、日常の延長にありながら、どこか非日常の空気を孕んでいる場所。 「今日は、どの湯が一番熱いかな」 「千夏はすぐ熱湯に入るからなぁ……私はぬるめから攻める」 そんな他愛ない会話をしながら、二人は靴を脱ぎ、脱衣所へと向かった。 ──パタン。 ロッカーの扉を開ける音が響く。 服を脱ぐたび、心まで軽くなっていくようだった。 千夏はブラウスのボタンを外しながら、ふと天井を見上げた。古びた木枠の蛍光灯がぼんやりと灯り、ほのかに黄色がかった光が脱衣所を包んでいる。どこか懐かしい、祖母の家のような空気感が漂っていた。 「やっぱり、ここが落ち着くなぁ……」 麻里が髪をほどきながら、ふわっと息をつく。 「大学の課題がなかったら、毎日でも来たいよね」 「ほんとそれ。教授たちは私たちを締め上げるつもりなのかってくらい、レポート多すぎ……」 「まぁね。でも、その分、風呂が最高に沁みる」 二人は笑いながら、タオルを手に取り、風呂場へと向かった。 ──ガラッ。 引き戸を開けた瞬間、もわっとした湯気が全身を包み込んだ。湯の香り、石鹸の匂い、微かに混じるミントのような清涼感。心の奥がふわっと解けるような感覚が広がる。 浴場の中央には大きな湯船。端には、ジェットバスや電気風呂。奥のほうには、薬湯と書かれた木札がかかっている。千夏はくるりと首を回し、浴場全体を見渡した。 「今日は混んでるね」 「寒いしねぇ。やっぱり冬の銭湯は最高だから、みんな考えることは同じでしょ」 二人はカランの前に腰を下ろし、桶に湯を汲んで、ざばっと頭から浴びた。じんわりと肌に広がる温もり。まるで、冷え切った心まで溶かしてくれるようだった。 「……っくぅ〜！！ しみる！！」 「千夏、いつもリアクション大きすぎ」 「だって、しみるじゃん！ 最高に気持ちいい！！」 麻里は呆れたように笑いながら、自分の髪にお湯を流す。 二人はシャンプーの泡をたっぷりと立てながら、時々視線を交わし、くすくすと笑った。こんな何気ない時間が、一番心に沁みるのかもしれない。 「さて、どの湯に入る？」 「もちろん、熱湯から！」 千夏は嬉々として立ち上がり、湯船へと向かった。 千夏は足を湯に入れた瞬間、反射的に肩をすくめた。 「熱っ！」 「だから言ったじゃん……」 麻里が笑いながら、ぬる湯のほうに向かっていく。 千夏は眉をしかめながら、じりじりと足を沈め、膝、太もも、腰……と少しずつ湯に馴染ませていく。熱い。でも、この熱さこそがたまらない。じんわりと全身に染みわたり、肌の奥からじわじわとほぐれていく。 「ふぅぅぅ……」 背中を湯に預けた瞬間、千夏は目を閉じた。頭の中に溜まっていた考えごとが、ゆっくりと湯の中に溶けていくようだった。 ──単位、大丈夫かな。 ──就活、そろそろ動かないと。 ──このまま、社会人になっていくの？ 大学三年生の冬。 日々の忙しさに流されていたけれど、進む先を考えなければいけない時期だった。目の前の課題をこなすことで精一杯だったけれど、その先にはもっと大きな決断が待っている。 （つづく） 文字の制限があるため、続きは私のnoteをご覧ください。気に入っていただけたらハートマークをタップお願いします！